サブやんの気ままなPHOTOライフ

山や川などの大自然、野鳥や昆虫などの動物、花などを撮るのが大好き。そんな被写体を気ままに撮っています。

栃木野州八社八幡詣「神玉巡拝」を始める

【野州八社八幡詣とは】

平安時代より続く、大願成就を祈念して神社を参拝する風習です。
神社を巡り参拝することにより願い事が研ぎ澄まされ、進むべき道が開けてゆくと信仰されてきました。

江戸時代には「八所八幡宮参り」、通称八八幡詣(ややはたもうで)が流行し、全行程十五里ほどの都内にある八幡宮を八社巡り、八百万(やおよろず)の御神徳にあやかるようになりました。

野州下野の国(現在の栃木県)の東山道沿いには、「蝦夷」討伐の折に八幡宮が多く勧請され祈願所として、時の権力者による崇敬が篤く、願掛けの逸話も多いことから、令和6年栃木県にあるハヶ所の八幡宮を結び1年の大願をかけて八社を巡る「野州八社八幡詣」が生まれました。

全ての八幡宮の主催神は、「八幡大神」または「誉田別命(ほんだわけのみこと)」「応神天皇」と」呼ばれ、武運長久・万事必勝の武神として崇められてきました。


神玉巡拝をはじめるにあたり、MAPで見たとおり南は足利、北は大田原と広範囲になり、何処からどのように巡拝するか考えたところ、古の「蝦夷」討伐に思いをはせ、「野州八社八幡弓街道」沿いに南から北上するかたちで始めようと思います。

いまのところ、期間限定の情報はないので1年をかけてのんびりと巡拝しようと考えています。

が、隠居生活で自由の身、いつでも行動できる1、2ヶ月で満願成就かな。

8月25日、足利市の「一社八幡宮」を参拝し、「野州八社八幡詣 神玉巡拝」をスタートしました。


足利市八幡町の「一社八幡宮」

<由緒>
下野國一社八幡宮は、天喜4年(1056年)に源頼義・義家父子が前九年の役に際して戦勝を祈願し山城の国(現京都府)の男山八幡宮を勧請して創建した八幡宮と言われる。
祭神は誉田別尊(応神天皇)、大帯姫命(神功皇后)、姫大神である。
頼義・義家が創建した後は、源姓足利氏の庇護の下で隆盛したといわれる。
足利荘にあったため古くは足利荘八幡宮と呼ばれ、また下野国第一の八幡宮という意味で下野國一社八幡宮あるいは一國一社八幡宮とも称されてきたとされる。

「手水舎」



手水舎の「龍神」

「二の鳥居」

「拝殿」

本殿の彫刻(向かって右側)

本殿の彫刻(向かって左側)

源義家が、陸奥の豪族安部頼時父子を討伐(前九年の役)するために宿営した。

「社務所」

右側のところで御朱印の受付をしています。
常時人はいないので、棚に置いてあるベルを鳴らすと、奥から神社の関係者が出てきて対応してくれます。

神玉巡拝の御朱印には2種類がありました。
2026年のみの限定御朱印と通常の御朱印(下記の写真)。
ここに、順に参拝した神社で御朱印を押していただきます。
最後に参拝した神社で、御朱印と満願の日付を記入していただき満願成就です。
予定では左回りで巡拝、大田原の那須神社で「八社八幡詣」の神玉巡拝を終了し、満願成就になります。

神玉巡拝御朱印帳

一社八幡宮の「神玉お守り」

神玉お守り

神玉の表には、神社の名前と印が刻印されています。

神玉の裏には、神社のシンボルマークが刻印されています。

神玉巡拝は、各神社で神玉を受け取り、専用ケースに納めることで願い事の成就を祈念するもので、巡拝の達成証明書も授与されます。

参加者は、各神社の社務所で巡礼マップや観光マップを入手し、自由なタイミングで巡拝を楽しむことができます 。

現時点では、公式サイトや各神社の情報に終了日や期間限定の記載はなく、群馬、広島、茨城など全国的に神玉巡拝は広がりを見せています 。

「下野国一社八幡宮」と「門田稲荷神社」の通常御朱印

一社八幡宮の通常御朱印もいただいてきました。



縁切りの神社「門田稲荷神社」

榎木稲荷、伏見稲荷と並び、「日本三大縁切稲荷」の一つで男女間、病、薬、賭け事等の縁切、病気や災難等の厄除に徳があるとされます。



下野国一社八幡宮の一般参拝者用駐車場

駐車場は、足利市立山辺小学校の正面にあります。

下野国一社八幡宮の駐車場は、道路(県道40号)を挟んでセブンイレブン八幡町店の向かいにあります。

「一社八幡宮神社」は、一般参拝者用駐車場から10mほどのところにあります。

社務所の隣にあるこちらの駐車場は、身障者用を含め5台程度分しかありません。
関係者用となっているので、一般の参拝者は停めることができません。

関係者の車両で満杯でした。

初めて参拝に来た私は、一般参拝者用駐車場がわからず、入口が開いていたのでなかに入り方向転換をしていると、社務所から関係者が出てきて一般参拝者用駐車場の場所を教えてくれました。

 

北関東36不動尊霊場第17番札所「古峯原金剛山瑞峯寺」を参詣する

古峯原金剛山瑞峯寺は、日光開山勝道上人が修行した古峯原奥之院三昧石を御神体とし、金剛童子・不動明王をお祀りしている、真言宗醍醐派のお寺です。

修験道千古の霊場 北関東36不動尊霊場第17番札所

北関東三十六不動尊は三密教の道場として、昭和63年につくられました。

栃木県、群馬県、茨城県の北関東の3県のお寺で組織され、栃木県は「口蜜修業(真言を唱え)の道場」、群馬県は「身蜜修業(手に印を結び)の道場」、茨城県は「意蜜修業(心を集中させる)の道場」となっており、護摩を焚く寺を基準に選ばれています。

当山は第17番札所になり、金剛不動尊像が寺院入口で大火炎を背負って立っています。

右手にかかける剣で、願主に降りかかる一切の諸難を断ち切り、あわせて人生の荒波を切ってくださる有難い仏様です。

天平宝字元年(757年)日光山を開く勝道上人(しょうどうしょうにん)によって当山奥之院三昧石(三枚石)が開創されました。

上人が二十三歳の時、下野の出流山(いずるさん)より三昧石に着いた際、峯に古色蒼然とした広大な原野があるので古峯原(こぶがはら)と名付けられました。

また、一説には『花供(はなく)の峯』から『供峯(くぶ)』へ、更に『古峯(こぶ)』になったとも言われています。

金剛山という名称は、
①弘法大師が上人の遺弟道珍法師に金剛界の大法を授けたという説と
②1335年頃に後醍醐天皇の勅願によって大和の国(奈良県)葛城別当賢道(けんどう)僧正によって葛城金剛山の分霊を奉じて本尊金剛童子を祀った説
があります。

【年中行事】

◇火渡り修行 5月最終日曜日

 煩悩を焼き、厄除け・家内安全を願う。

◇ご縁日護摩修行 毎月第3日曜日13時(4、5月を除く)

 護摩とは、智慧(ちえ)の火をもって、煩悩を焼き尽くすことで、 護摩の火は、心身浄化の聖火であり、ご本尊の宝前に香華・お供物をそなえ、心身を清めた導師が護摩木を焚いて種々の秘法を修し祈念するものです。これによって、ご本尊の功徳と浄僧のお祈りする功徳と、信仰する功徳、この三つのものが完全に一つにとけ合い、護摩の修法によってお加持された結晶が、授与される護摩札です。

「不動明王」

右手の剣 欲・怒り・迷いを切る
左手の縄 仏の教えを守ろうとしない者を縛る
◇厄除開運
◇商売繁盛
◇家内安全
◇勝負必勝
◇立身出世
◇交通安全

 

本堂への入口には、神仏習合の鳥居があります。

「金剛童子」

本尊 金剛大権現と同体で、金剛童子という名前は別名
◇災難除
◇諸願成就

一粒万倍釜(いちりゅうまんばいがま)

この釜は酒造りに使用され、当山に参詣することで財を成すことができた釜として奉納されお祀りしています

一粒万倍とは、一粒の籾(もみ)をまけば、実って万倍の籾をもった稲穂になるという意味です。

◇金運・財運
◇食べ物に困らない

「蓮華鳥居(れんげとりい)」

仏教の蓮の花之台と神道の鳥居が合わさった神仏習合の鳥居

本堂

本尊(金剛大権現)や不動明王等を祀り護摩祈祷をする。

大天狗(だいてんぐ)

花高く山伏の姿をし、深山に住み、神通力を備える。
羽団扇により災難を扇ぎ祓い除く。
◇災難除
◇火防(火事除け)
◇盗難除(泥棒除け)

「手水舎の水神龍」

水の神様で、参拝者の穢れを水の力で祓い清める。

<龍に九似あり>
角は鹿、頭は駱駝、目は兎・鬼、項(うなじ)は蛇、腹は蜃(みずち)、鱗(うろこ)は鯉、爪は鷹、掌(たなごころ)は虎、耳は牛に似る



「弁財天」

琵琶を持ち音楽などの学芸・才能の神様です。
◇金運・財運
◇芸能・音楽の上達

階段のほぼ中間地点にある「寺務所」

御朱印はここで頂けますが、今回私は本堂の右手前にある建物で、ご住職に目の前で書いていただきました。

建物の中に、ご住職の姿が見えたので、声をかけたら快く書いてくれました。



導きの八咫烏「末広がり芳賀八社御朱印めぐり」真岡市の大前神社参拝で完結

導きの八咫烏「末広がり芳賀八社御朱印めぐり」もいよいよ最終章

真岡市の大前神社で芳賀八社、すべてを巡り終えました。

<御祭神>

 大己貴命(おおなむちのみこと)

 事代主命(ことしろぬしのみこと)

大己貴(おおなむち)神またの名を大国主・大物主・大国魂など多くのお名前があり一般的にはだいこく様と呼ばれる。

大国様は国土経営に当たり大きな袋に「もの種」を沢山詰め、背負いながら国内の農業をはじめとするあらゆる産業・生活文化の種を配り歩かれ、 悪しき者を正しき道に導き、医療の道や殖産興業を教えて歩かれました。

えびす様とも呼ばれる事代主神は、大国様のお子様にあたる神様で、河川海洋の守護神であり、漁業安全・大漁豊漁をはじめ商売繁盛・家業繁栄などの御利益を下さいます。 このお二人の神様を二福神と申すこともあるように、多くの御利益と教えを与えて下さいます。

<御神徳>

 開運招福、五穀豊穣、商売繫盛、家内安全、厄除方位除、縁結びなど様々。

<由 緒>

二福神と称される大国主神(だいこく様)と事代主神(えびす様)を祀る。

神護景雲年間に再建と伝わり、醍醐天皇勅令の延喜式内社に列する。

平将門が戦勝を祈願し、太平記にみえる坂東荒武者紀清両党の芳賀氏が崇拝し、天正年間には大前神社本平家物語や太刀を奉献した。

二宮尊徳翁とも縁深く、東を流れる五行川大前堰を改修し、茨城県まで及ぶ大灌漑事業を完成させた。

平成元年12月に分祀祭を斎行し若宮「大前恵比寿神社」を建立し、日本一のえびす様と親しまれている。

平成30年12月に御本殿並びに幣殿及び拝殿が国の重要文化財に指定されたほか、朱塗り両部鳥居、銅燈籠他、栃木県指定文化財、真岡市指定文化財を有する。

初詣には、約15万人が訪れ、多くの参拝者が二福神熊手や破魔矢を求め、家内安全や厄祓・方位除などの祈祷を受け1年間の無病息災、安寧を祈る。

平成15年頃に参拝者が宝くじで高額当選したことから、北関東屈指の「宝くじ当選祈願神社」として知られ、多くの参拝者が訪れる。

 

五行川沿いの表参道(写真中央一の鳥居)

ほとんどの人が、境内に隣接する駐車場を利用するので、この正面の表参道を歩いてくる人は少ないようです(拝殿に近い)。
私も初めてのときは、よくわからなかったので一の鳥居前にある駐車場を利用して、表参道を歩いてお参りをしていたのですが、その後は境内に隣接する駐車場を利用してお参りをしています。

表参道を進んでくると二の鳥居、その奥に社殿が見えてきます。

手水舎で穢れを祓い清めます。
脇には、熊本大地震災害の義援金の箱が置かれていました。

大前神社の社務所

右側に御朱印の受付があります。
番号札をいただき15分ほどまたされました。
その間境内を見て歩き、御朱印を受け取りに行きました。
受け取りは別の場所(隣)になり、番号札と引き換えに渡されます。

もちろん頂いたのは八咫烏の御朱印です。

前回に大前神社や乃木神社を参拝した時に、この左馬というのを見たのですが、その意味するところが分かりませんでした。

ようやく意味するところが分かりました。

乃木神社を参拝した時に見た「左馬」

生馬大神(いこまおおかみ)

最大パワースポット大前恵比寿様

えびす様の社務所の横にある池の前には、宝くじに当選したかたのお礼の絵馬が飾られていました。


次の巡拝の目標は、栃木県野州八社八幡詣 神玉巡拝をやり遂げたい。

世間一般に言われる単なるスタンプラリーとは違い、古来からの信仰により神社を参拝し、感謝の言葉を告げる神聖な拝礼なので、そこをスタンプラリーと勘違いをしないでいただきたい。

栃木県だけでなく、関東近県では福島、茨城、千葉、群馬などでも行っているので、順次巡拝したいと思っています。

現時点では、期限は設定されていないようなので、のんびりと巡拝しようと思います。

導きの八咫烏「末広がり芳賀八社御朱印めぐり」真岡市千代ヶ岡八幡宮

長沼八幡宮を参拝したあと北上し千代ヶ岡八幡宮へと来ました。

「末広がり芳賀八社御朱印めぐり」の7社目です。

<御祭神>

誉田別命(ほんだわけのみこと)(応神天皇)

<御神徳>
諸願成就・勝運・縁結び

<由 緒>

創建は寿永2年(1183年)に谷田開(谷田貝・現在の真岡市久下田字八幡山)に源氏の守護神「八幡大神」を勧請し開拓地の産土神として奉斎された。

源氏の守護神「八幡宮」を分霊いただき、谷田貝(現在の真岡市久下田)の産土神(うぶすなのかみ)として祀られました。享保9年(1727年)、律令に基づき社殿に菊の紋章(天皇家の家紋)を請願し、宣旨されました。

その産土神を千代ヶ岡と称するのは神社建立のとき何処からか白鶴が一羽飛来して悠々と社殿の上を舞って飛び去ったが次の日も次の日も飛んで来て舞うこと3日に及んだこの奇瑞にあやかり鶴千年の齢に因んで千代ヶ岡と名づけ以後千代ヶ岡八幡宮と称した。

 

千代ヶ岡八幡宮駐車場への入口

駐車場は社殿のすぐ前にありました。

鳥居がないので、どこにあるのかと探すと、200~300mほどのところにありました。
戻り、鳥居から入りなおし参道を本殿に向かいます。

正面の鳥居から入り直し参道を進んでいきます。

参道を歩いてくると漂う空気が違います。

駐車場は20台から30台くらい停められるでしょうか。

参道を真っすぐにきて階段を上がると社殿があります。

手水舎で穢れを清めます。

ひまりの花が添えられています。

御朱印は、社殿の中で受付をしていました。
階段のところで拝礼をして、上にあがると中で若い女性の方が受付をしていました。
左側にある部屋の中で神職さんが御朱印を書いていました。

ここ千代ヶ岡八幡宮も参拝の作法が多くの神社と少し違いちょっと戸惑いました。

珍しいワンちゃんの限定御朱印

書置きの八咫烏の御朱印
直書きもあり、30分ほどかかると言われましたが直書きの御朱印にしました

日本一のいちごの生産地に鎮座する神社で絵馬もいちごに。

本殿ですが、さらに建物で囲まれていました。

まだ紫陽花が綺麗な花を咲かせています。

千代ヶ岡八幡宮は小さな社で境内も広くなく、大きな神社でよくある摂社や末社はありませんでした。記念碑が2つ建っていました。

社殿と本殿が建っているのみで、社務所はありませんでした。

社務所の代わりなのでしょうか社殿まえに2張りのテントが建っていました。
右側のテントにはお守りなどのお授けものが置かれ、左側のテントは休憩所となり冷たい麦茶が置かれていました。

参拝に訪れた人は、ここで休憩をしながら御朱印が書きあがるのを待っています。

私も冷たい麦茶を飲みながら御朱印が書きあがるまで40分ほど待ちました。
訪れる人はそれほど多くはなかったのですが、御朱印を求める人がパラパラと訪れ待ち時間が長くなりました。

狭い境内のなかアブラセミが鳴き夏を感じます。
もう汗ビッショリでハンカチで汗をぬぐいながら。


次は、いよいよ導きの八咫烏「末広がり芳賀八社御朱印めぐり」の最後8社目の大前神社へ向かいます。

 

導きの八咫烏「末広がり芳賀八社御朱印めぐり」真岡市長沼八幡宮

「末広がり芳賀八社御朱印めぐり」もいよいよ大詰め、真岡市の「長沼八幡宮」、「千代ヶ岡八幡宮」、「大前神社」の三社のみとなりました。

今日は、我が家から一番南にある長沼八幡宮から左周りに参拝し帰ります。
「末広がり芳賀八社御朱印めぐり」六社目になる長沼八幡宮までは車で約1時間、そこから北上して千代ヶ岡八幡宮、大前神社とめぐっていきます。

<御祭神>

 誉田別尊(ほんだわけのみこと)

<配 祀>

 天児屋根尊(あめのこやねのみこと)

 別雷尊(わけいかずちのみこと)

<由 緒>

延暦14(795)年、坂上田村麻呂が東夷征伐に功をなし、その帰途、武運を感謝するため一社を造営し、誉田別尊を奉斎したのが始まりと伝わる。
康平6(1063)年、源頼義が石清水八幡宮を勧請、永保2(1082)年には源頼家が社殿を造営するなど源氏の崇敬厚く、遠征の度に戦勝祈願、寄進がなされた。
元暦年間(1184~5)、小山政光の二男宗政が、当地、長沼庄を拝領して城を構え長沼氏を名乗り、長沼氏の守として鶴岡八幡宮を勧請した。

建久4(1193)年、源頼朝が長沼に宿泊した際、神夢により「加茂社(別雷尊)・春日社(天児屋根尊)の両神を祀れ」の神託を得て両神を勧請、神領五百石が下賜された。
鎌倉御家人、さらに関東八屋形の一として勢力を誇っていた長沼氏の庇護の下、神社も栄えたが、戦乱の文明年間(1469~87)、十二代長沼成宗の時に長沼城落城。神領も没収され衰退する。

江戸時代に入ると幕府から庇護され、慶長9(1604)年、徳川家より御采地十石を賜る。

寛永20(1643)年社頭等修営、元禄10(1697)年社殿を再興し、青銅鳥居を建立。さらに本地堂の建立、二荒山神社・熊野神社の勧請。天明7(1787)年随身門が建立された。

春季例祭には嘉永2(1849)年に始まる永代太々神楽が今もなお奉納され、社頭は大いに賑わう。
また十五夜の秋の例祭には、かつて流鏑馬(やぶさめ)が行なわれていた。

 

二の鳥居前の駐車場
左側は郵便局
元は一の鳥居からの参道(馬場参道)だったようで、いまは駐車場になっています。

二の鳥居(銅鳥居)

手水舎

この横に御朱印の受付所があります。

随身門

茅の輪を潜ってお参り

イチョウの木(右)と相生の木(左)

イチョウの木
真岡市指定の古木・名木(令和4年1月25日

相生の木
夫婦円満・健康長寿

一の鳥居
社殿まで参道(馬場参道)になっていますが、いまはほとんど使用されていないようです。

参道わきに車道が整備されていて、参拝に訪れる人はこの奥、二の鳥居前に整備されている駐車場まで車で行ってしまいます。

最もこの一の鳥居周辺は、住宅や田畑、道路などで車を駐車できるような広い敷地はないので。

 

導きの八咫烏「末広がり芳賀八社御朱印めぐり」芳賀町の芳賀天満宮

雨天の中、祖母井神社と同じ芳賀町内にある、芳賀天満宮へと向かいました。
導きの八咫烏「末広がり芳賀八社御朱印めぐり」の5社目です。

<御祭神>

 菅原道真公

<御神徳>

 合格達成、学業成就、就職達成、厄除開運、家内安全、交通安全、身体健全

<御由緒>

社伝によれば、鎌倉時代の貞永2年(1233)に創立されたと伝えられております。
古くは山城国の北野天満宮に象りて北野原と号し北原天神と称した。
宇都宮頼綱の四男で多功城を築く宇都宮石見守宗朝の11代子孫、秀朝が永禄元年(1558)に修覆を加えると元禄10年(1697)記しの由来書にあるなり。
明治維新より神社名を天満宮と改称し明治5年5月、西水沼村、北長島村、東水沼村、氷室村、鐺山村、上籠谷村、下籠谷村、竹下村、打越新田村、西高橋村以上10ケ村の郷社となる。
菅原道真公太宰府へ左遷の時、攝津国より船に乗りて豊前国の水沼の浦でこそ船を懸けて動かざる時に、宇佐に祈念し博多の津に着き船戸に上がられたという。
この由縁を移して当地の村名を水沼と称し字を船戸と称することになったと伝えられている。

芳賀天満宮は、周囲を田園風景に囲まれたこんもりとした小高い森の中にありました。

ナビを設定していたものの入口がわからず通り過ぎてしまい、付近をぐると回ってもどり入口へ、本当にこの道でいいのかと心配になるほどの狭い道(田の中の畦道という感じ)を右へ左へと曲りながら進むと、ようやく神社の標識がでてきました。

このように周囲は田園風景となって行って、田畑の中の狭い道を通ってきました。
写真右の右端のところ(ガードレール)が神社への入口になっていました。
この道のところに階段の参道があり、上ったところに鳥居があります。

そこの坂を上がっていくと左手に神社の駐車場が現れ車を停めて参拝しました。

雨は、まだ止まず傘をさしての参拝です。

神社正面の駐車場

駐車場のこの場所を入れば社務所の目の前に出て近いのですが、ご覧のように水たまりとなっていること、正式の参拝経路と違うこと(神社関係者用の通路!?)、鳥居を潜らないで参道を進まないことは神様に失礼に当たるので、遠回りしても正式の参道を通ります。

駐車場にある天満宮正面の参道入り口を入っていきます。

ここからの田園風景が、晴れていればもっと素晴らしいのでしょう。

鳥居の横にある大きな石碑

芳賀天満宮の鳥居

傘を差しながら片手で撮ったので、傘を落としそうになり大きくブレてしまいました。

参道正面に見えるのが社殿、左側が社務所です。

手水舎で穢れを清めて参拝します。

願い事を叶えてくれる牛、願い事をして撫でてきました。

社務所

ここで御朱印をいただきました。

 

神社西側の風景
この先に西側駐車場があります。

神社北側の風景
このように神社は田園風景に囲まれています。

 

「郷社」とは、明治時代の旧社格制度において府県社の下、村社の上に位置する地方の中心的な神社で、郡や市単位で崇敬される産土神(うぶすながみ)を指します。

郷社(ごうしゃ)は、府県社に次ぐ社格であり、村社よりも広い範囲で崇敬される神社で、地方官の所管下に置かれました。

明治政府は、近代社格制度を通じて神社を官社と諸社に分類し、諸社を府県社・郷社・村社に区分しました。

全国に約18万社の神社が形成され、郷社はその中で地方の中心的役割を担いました。

旧社格制度は1946年に廃止されましたが、郷社としての歴史的地位や地域での信仰の中心性は現在も尊重されています

導きの八咫烏「末広がり芳賀八社御朱印めぐり」芳賀町祖母井神社

末広がり芳賀八社御朱印めぐりの4社目は、芳賀町の祖母井神社(うばがいじんじゃ)です。

<御祭神>
 ◇彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)
 ◇須佐之男命(すさのおのみこと)
 ◇木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)

<御神徳>
 ◇産業繁栄
 ◇良縁結び
 ◇厄除け
 ◇安産子授け

<御由緒>

近衛天皇久安元年(1145)創建と伝えられている。

ご祭神は、彦火火出見命、須佐之男命、木花開耶姫命の三柱。

以前は、村の北東隅に鎮座する『上の宮』に彦火火出見命、須佐之男命が祀られ、

現在のお宮から東へ600M程にある「姥ケ池」に鎮座する『下の宮』に、木花開耶姫命が祀られており、両社とも村の鎮守として崇敬を集めた。

中世には、祖母井氏により尊崇を受け、歴代城主により社殿の修復や再建がなされた。

また、享保年間(1716~1736)には、朝廷より御神号「正一位星宮三社大明神」を賜る。

桃園天皇宝暦10年(1760)、『上の宮』が火災により焼失。

後桜町天皇明和2年(1765)、『上の宮』と『下の宮』を、現在の社地に遷移・合祀して『星宮三社』と称した。

後桃園天皇明和7年(1770)、当地の豪農・横堀仙右衛門により、ご本殿が寄進される。

明治6年(1873)、祖母井(うばがい)神社と改称し、旧祖母井村の鎮守・村社に列せられた。

江戸中期の優れた匠の技術を見ることが出来る極彩色豊かなご本殿は、芳賀町の社寺建築の中で唯一、栃木県の文化財の指定を受けている。

芳賀町田野辺村(現市貝町)の宮大工・永野仙右衛門により建造され、彩色は水府礒浜(現茨城県大洗町)の人見岑春(じんしゅん)によるものである。

神使・飛竜
 本殿左右の妻飾りには、翼を持つ竜・飛竜が阿・吽の一対配されており、神さまのお使いとして、あらゆる厄難・災難・方難を排し、幸運へと導いてくれる。

祖母井神社では、参拝の作法が他の神社と少し違っていました。

朝起きると外は激しい雨、その雨もやみ陽射しもさしてきたので、御朱印巡りに芳賀町の祖母井神社と芳賀天満宮へ行くことに。

宇都宮環状道路を走っていると雨が降り出し、芳賀工業団地(LRTの軌道沿い)までくると土砂降りの雨となり、道路はアッという間に冠水し川のような状態、前を走る車も水しぶきを高く上げて走っている。

いつ車がエンストを起こしてもおかしくないやばい状況。

行くのをやめて戻るか悩むが、戻るに戻れない状況、行くしかない。
早くこの状態が解消される道路に出ないかハラハラしながら車を進めるが、100m、200m・・・500m、なかなか解消されない、1㎞くらいハラハラしながら走っただろうか、ようやく凹地形となった場所を通過した。

目的地の祖母井神社に着くと激しい雨から小降りなってきたので当初の予定通りに傘をさしての参拝をする。

雨は少し落ち着いたものの空はどんよりと曇ったまま。

社務所にいた女性の方と話をすると、地元の方でよくご存「あそこは周りより低い地形になっているので水が溜まってしまう」と話してくれました。

そして、スマホで雨雲レーダーの状況を見せてくれ、東から西に流れていると教えてくれました。

雨も小降りとなってきたのでこの後予定どおりに芳賀天満宮へと向かいました。

家に帰りニュースを見ていると千葉県では災害級大雨との大変な状況になっていました。